NHK 大河ドラマ 八重の桜 視聴率 速報 8話 2月24日
「ままならぬ思い」 八重の桜 あらすじ を紹介いたします。
松平容保は、天皇の身辺警護を決意します。
「ふふっ。・・ ままならぬものよ。誰も、望みどおりには生きられんか」
ままならぬ思いとは、 西郷頼母が語ります ・・・・・・ おたのしみに。
八重の桜 視聴率 7話は17.5%、前回よりも2.2ポイントアップしています。
この数値は、世帯試聴率であって、この数字をもとに「○○○万人が見た」と、
いったようなコメントは正しくないことだけは知っておいてください。
いつか解説を致します。さあ、一家団欒、楽しみましょう。少し歴史もわかりますよ。
文末に、
尊皇攘夷について解説を付け加えております。簡単にいえば
歴史においては、ペリー黒船など、幕末に外国船が次々にやってきます。
その外国の人たちを打ち払うという意味でつかわれています。
歴史解説、興味のある方は、会津藩と京都守護職、容保はどうして京都守護職を
引き受けたのか、それが会津を滅ぼす要因になるとは ? の解説を載せました。
少し長いですが、歴史の一端が分かりますよ。おたのしみに。
●余裕のある方は、「八重の桜 音楽 メインテーマ 2分38秒 」 をお聴きになりながら、
ごゆるりと、あらすじをご一読ください。
映像には著作権がありますので、お手数ですがクリックしてからお聴きください。 ⇒
こちらから
●八重の桜 メインテーマ ビアノソロ 坂本龍一 2分45秒
(どらまちっく、オーケストラとはべつもの、しっくりときますよ) ⇒
こちちらから
●登場人物 (顔写真付) ⇒
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●登場人物 (全体相関図) ⇒
こちらから
❐ 第8話 「ままならぬ思い」 あらすじ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文久三年(1863) 山本八重 19歳、
山本覚馬 36歳、
川崎尚之助 28歳
京の都では、いまだに天誅(てんちゅう ⇒天に代わって罰を与える) と称する人斬りが
絶えず、取り締まる会津藩の手が足りない状況が続いていました。
京都守護職の任にあたる
会津藩主・松平容保(かたもり)は、
取り締まりに頭を悩ませています。そこで、山本覚馬と
秋月悌次郎は、壬生村(みぶむら)にいる、
幕府が集めた浪士たちに会いに行きます。
土方歳三(ひじかたとしぞう)に
案内されてついていくと、剣術の稽古をしており、かなりの使い手がそろっておりました。
この日から、壬生浪士組(みぶろうしぐみ)24名は、会津藩お預かりと決まります。
これが後に、新撰組を拝命することになにリます。
覚馬は京で久しぶりに
勝海舟と会います。
勝は、京での攘夷騒ぎ (幕末に、黒船など外国船が次々にやってきます。
その外国の人たちを打ち払うこと行動など) が気になっていました。
幕府の攘夷姿勢は形だけで、やる気はさらさら見えず、攘夷派が騒ぎ始めて、
京の町は攘夷一色、そのためには平気で人殺しもやる、そんな状況下。
勝は幕府を非難し、さらに、壬生浪士組という人斬り集団を、
会津が雇ったことに苦言を呈するのでした。
勝と別れ、覚馬は賀茂川のほとりにたたずみ、「俺はなにをすればいいんだ、
10年後、100年後の人々のために ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
文久三年5月、
薩摩藩は御所から遠ざけられ、長州派が公家、朝廷の実権を握ります。
長州派の敵は、壬生浪士組、そして京都守護職・会津藩主・松平容保へと敵意が向けられ、
容保を
孝明天皇のそばから遠ざけるよう、ひそかに計画を立てます。
いっぽう会津では、
八重がいつもの桜の木の上で砲術書を読んでいます。
顔を上げると、木の下から
佐川官兵衛が、
西郷頼母に、京に自分もやって欲しいと
頼んでいます。官兵衛は謹慎中の身、「ならぬことはならぬ」と頼母は一括します。
それを見ていた八重は、頼母に「私が男ならば、京に、はせ参じたい」と言います。
それは藩主・松平容保の情け深い人柄、殿様のために働きたいといういちずな
思いからでした。頼母は、「人の心を動かすのは、罪の恐ろしさよりも、
温かい情かもしれない。なれば寛容の心こそが、憎しみから身を守る盾となるはず」、
京に行って主君・松平容保をいさめる決意をします。
京では、
三条実美(さんじょうさねとみ ⇒ 攘夷派公家)が、幕府や容保などに対して、
策略を巡らせていました。京で会津の手助けをする者はだれもおらず、
会津一藩が攘夷派の恨みを買っていました。
西郷頼母は会津から京へかけつけ容保に進言します。
「この先、守護職のお役目を続けては、会津の手も、名も、血にまみれます」と、
「天皇は、ただ一人で国を担う重さに耐えておられる。一藩を賭けてでも、
お守りする。・・・・・それが会津の義だ」と、容保は語ります。
会津藩の存亡の危機になると考えた頼母は、
家訓にこだわる容保に、「殿が養子だからだ」と、口にしてはならぬことを言ってしまい、
激怒した容保は、頼母の家老職を解任し、会津での謹慎を命じます。
会津では、
八重がいつものように桜の木の上で砲術書を読もうとすると、
西郷頼母が先に来ていて、虫の巣を払っています。
「・・・・・・ 桜が枯れぬように、せめでも、災のもとを取り除きたかったのだが ・・・・・・」
「・・・・・・ ふふふ、ままならぬものよ。 ・・・誰も、望みどおりには生きられんか ・・・・」
謹慎の身となった頼母に、八重なりに何かを感じるものがありました。
「私に、お手伝いさせてください。木が枯れては、私も困るから」、
八重と頼母は、いつくしむように桜の木の手入れを続けます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 次回 3月3日 9話 八月の動乱
ドラマでは「尊王攘夷」という言葉がよくでてきます。
結論的には、
歴史においては、ペリー黒船など、幕末に外国船が次々にやってきます。
その外国の人たちを打ち払うという意味でつかわれています
そこで、「攘夷」の意味がわからないと、ドラマを見ていてもちんぷんかんぷん。
なんで尊王なのか、攘夷なのか、つながりが分からず、おもしろみが半分です。
そこで、少し長いですが、説明してみます。
漢字というのは便利なもので、
■ 尊王攘夷の「尊王」はすぐ見当がつきます。
王様を尊敬する、尊(たっと)ぶという意味です。
これまで幕府中心だったのが、天皇を中心にしようという動きです。
■ それでは、攘夷の、「攘」、「夷」は、どんな意味でしょうか。
「夷」は、歴史用語の「蝦夷(えぞ・えみし)」、「征夷大将軍」で使われています。
が、「夷」一つの意味は明らかにしないまま使っていることが多いです。
▼ 攘夷の「攘」は、「払いのける」という意味です。
じょう【×攘】[音]ジョウ(ジャウ)(漢) [訓]はらう
払いのける。払い除く。「攘夷(じょうい)・竜攘虎搏(りゅうじょうこはく)」
▼ 「夷」は、ここでは「異民族」という意味です。
い1 【▼夷】東方の異民族。野蛮人。えびす。
「蝦夷(えぞ・えみし)」は、「東方の異民族」という意味です。
「征夷大将軍」は、「夷(東方の異民族)を征討する大将軍」です。
●えぞ1 【〈蝦夷〉】
[1]〔補説〕 アイヌ語のエンジュ・エンチウ(人、の意)からという
古代に、北関東から東北・北海道にかけて住み、
朝廷の支配に抵抗し服属しなかった人々。えみし。えびす。
●せいいたいしょうぐん[―しやうぐん] 13 【征▼夷大将軍】
[1]平安初期、蝦夷(えみし)征討のため臨時に派遣された遠征軍の指揮官。
大伴弟麻呂・坂上田村麻呂・文屋綿麻呂などが任ぜられたが、以後中絶。
[2]鎌倉時代以後、幕府政権の長たる者の称。征夷将軍。将軍。
もともとは、中国で使われた言葉で、
「攘夷」は、「東方の異民族を打ち払う」という意味でしたが、
それを幕末には、「東方」は抜いて「異民族を打ち払う」という意味に使いました。
幕末にやってきたのは、西洋人だからです。
そこで、簡単・簡単にまとめると、
歴史においては、幕末に外国船が次々にやってくる。
その外国の人たちを打ち払うという意味でつかわれているということです
尊皇攘夷について
前回のあらすじでも説明しましたが、
天皇尊崇思想である「尊皇論」と、外国人排斥思想である「攘夷論」とが、
幕藩体制の動揺と外国勢力の圧迫という危機に統合して大きな潮流を形勢します。
幕末長州藩の下級武士を中心に尊皇攘夷運動という政治運動として激化し、
さらに討幕運動に発展して行きます。 (『日本史用語集』山川出版社)
ここで、薩摩藩、長州藩、会津藩や数多くの歴史上の人物が活躍することにつながります。
歴史解説 ⇒ 興味のある方はどうぞご一読を
・会津藩主 松平容保(かたもり)は、どうして京都守護職をひきうけたのか
徳川家への恩義を終生忘れることがなかった初代藩主・保科正之は、
世を去る4年前(1668年)に「会津家訓十五箇条」を残しました。
それは、「将軍家には忠勤を励むこと。他の藩を見て判断するな。
もし将軍家を裏切る藩主があればそれは私の子孫ではないから、
家臣はそれに従ってはならない」という徳川家への絶対的忠節を命ずるものです。
一般に家訓といえば、「家を守れ」「藩主に従え」といった内容が通例。
藩主を見捨ててまで徳川家への忠誠を尽くせというのは異例です。
徳川幕府の未来永劫の安泰を願ってつくったであろうこの家訓が、200年後、
結果的に会津を滅ぼす要因となることなど、このときの正之にどうして想像できたでしょうか。
(NHK公式サイト参照)
詳細は ⇒
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以上